「理解できないことへの寛容さ」についてのとめどない思考(ある日のツイート)
私自身は正常の範囲内でありながらスペック的に異端な部分を多々持っているからなあ(笑)
寛容でなければやっていけないって部分はあるよなあ。
>RT 「理解できないことへの寛容さを身に着けよう」のほうがいいんじゃないかな。世の中の数多の性癖を全部理解なんてできないでしょう。
逆に「異端ゆえに寛容でなければならなかった」ところがあるから、無駄に「正常である人」にこだわる人にかなり反発を持っていて、あるいは蔑むところはあったんだよなあ。実際「正常にこだわるがゆえに狭量」って人はいるわけだし、さらにそれを強要する迷惑な人もいたし。
だから今でも「理解できないことへの寛容さ」に反するものを、個人的にはかなり嫌う。
ここで思い至ったのは「理解できないことへの不寛容さ」ってもの。 これは正常でないものへの嫌悪なんだけど、それは単純な脊髄反射的なもので攻撃的なもの。
「アンチ」 と呼ばれるものの根源となるやつです。
「理解できない」というコトは誰にでもあるもの。
ゆえに「アンチ」と呼ばれる面は誰にでもあるし、だからこそ共感できる箇所があるもの。逆にそういう情を武器に攻撃できるトコロが「アンチ」。
つまり「理解できないことへの不寛容さ」は徹底的に攻撃できる武器になるわけです。
ここでさらに思い至るのは
その「不寛容さ」は「理解できない」故に徹底的そして殲滅的に対象物を攻撃できる武器になりうるということ。
裏を返せば「アンチ」というのは「理解できない」ってことを武器にしなければ成立しないということ。
「反原発」の異常さ加減もそう考えれば理解できるというもの。
「理解しない」のではなく「理解できない」という前提でないとなにもできない。「まともに取り合ったら負け」という言葉ですら生ぬるい。
そのクセやっていることは自分を正当化するために「理解しようとすらしない」という幼稚な行為。
しかしその「幼稚さ」すらもクセモノ。
なりふり構わない手加減なしで周囲を傷つけてまわるというはた迷惑な存在なのに、「理解できないから不寛容」(=「理解できれば寛容になり得る」)という体面を保っているために、大人として理解してもらうように努めるしかない。
その一方「アンチ」は「理解できない」という態度を続ければ永遠に「不寛容」で居続けることができる。しかも一般的には「不満なソクラテスの方がいい」→「不満だからソクラテス」という価値観があるからいつまでもその立場を堅持し、「アンチ」のゆりかごの中で安寧としていられる。
つくづく思う。
こういう幼稚な連中に振り回されるのはごめんだとね。
だっていい大人が好き放題暴れまわり、反撃されれば屁理屈こねる。
その実相手を理解せず、自分の殻に閉じこもり、「不満なソクラテス」を演じるために、思い出したように外に出てきては、迷惑をまき散らす。
大半の人には「理解できないことへの寛容さ」はあるし、「理解できないものへの不寛容さ」を知っている。
その「不寛容さ」を知っているがゆえに、「不寛容さ」自体に寛容でないといけないと思うかもしれないけど、多分そこで寛容であるべきじゃないと思うのですよ。
このあたりが結論。
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